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入選
課題図書 高校生の部 内閣総理大臣賞
特に内閣総理大臣から許可を得ているわけではありません。
作品情報
応募者名: 末茶藻中
対象図書: 課題図書 ごん狐(新美南吉)
区分: 高校生の部(2000字以内)
感想文
講評(クリックで表示)
講評:ほろあま
自身の記憶と関連付け、最終的にごん狐のメッセージ性に至る流れがとても美しい構成だと思いました。特に悲劇を成す要素に「知らなかった」ことを挙げ、記憶することの大切さにつなげる部分が上手いと思いました。再読という体験に重なるかたちで、この教訓を得られるのは教科書に載っていた「ごん狐」ならではかもしれませんね。彼岸花の描写を取り上げたのも素晴らしいと思いました。単に美しく咲く花の描写として読み取るだけでなく、後に踏みにじられる文も踏まえて、悲痛さを抱えた美としての彼岸花に着目したのは大きな発見ですね。そして、最後の一文で、きっと多くの人が「ごん狐」を読み返したくなることでしょう。当時は得られなかった感動を得られたとのことで、「ごん狐」を課題図書にして良かったと改めて思わせる感想文でした。
内閣総理大臣賞おめでとうございます。
『「ごん狐」を数年ぶりに再読して』
末茶藻中
ごん狐といえば、課題要項にも書いてある通り、学校の教科書で読んだことがある、という人も多い物語なのでしょう。かくいう私も、何の学校だったかだとか、あるいは何年生だったか、もうはっきり覚えてはいないのですが、おそらくは小学校のことだったでしょうか、なんて微かな記憶があります。
ですが時期はともかく、教科書でこの物語を読んだことは良く覚えています。このお話で何と言っても印象的なのは。兵十がせっせと自分に食べ物を持ってきてくれていた、狐のごんを撃ち殺してしまうという、ショッキングで悲しい結末でしょう。「ごん、お前だったのか、いつも栗をくれたのは」という、ごんを撃ち殺してしまった時に兵十が思わず口にした言葉は、この物悲しい物語と最も結びついた記憶であり、私も久しぶりにこのお話を読みながら、思わず懐かしい気持ちになりました。
しかしながら、人間の記憶というものは頼りないものです。この長さの物語ですから、おそらくは幼かった私達の国語教育のために、穴が空くぐらいに文章の一つ一つについて学んだであろう時間が私にもあったのではないかと思うのですが、細部に至っては全く覚えていないのです。
改めてこの物語を読んだ時に、印象的だったのは、兵十の母が亡くなった時の村の様子でした。はじめごんは浮足立つ村の様子を受け「秋祭りかな」と考えるのですが、次第に様子が違うことに気が付きます。ごんの目線を通じて、賑わいながらもめでたい祭りではなく、人々に暗い影が落ちている出来事であることが、短いながらもいきいきと表現されているな、と感じます。そんな中で、美しく咲く、赤い布に例えられた彼岸花の情景は、思わず目に浮かぶようであり、この一連の葬儀の出来事の中でも特に印象的なシーンです。
ところが、この情景において、ひときわ”目を引く”ように感じられた彼岸花は、人々が通った後に無惨にも踏み折られてしまうのです。なんとまぁ、この「ごん狐」というのは全編通じて物悲しさに満ちたお話なのでしょうか! 彼岸花はその名の通り死を連想させる花であり、この葬式のシーンで登場するのもその理由が一つあるでしょうが、さらにその彼岸花が踏み折られてしまうなんて、どこまでも悲劇的に彩られたお話だなあと思ってしまいます。
こうして改めて物語を通して見てみると、この「ごんぎつね」の悲劇というのは、常に「知らなかった」ことで生まれています。いたずらをしたごんが知らなかった兵十のおっ母のこと、よかれと思った善行でもいわしの盗人と勘違いされてしまうこと。それでもごんの親切心は母を失った兵十の心をほんのすこしばかりでも癒やすことができたでしょうが、結局は兵十がそんなごんの想いを「知らなかった」ために、悲劇的な結末を迎えてしまいます。
踏み折られた彼岸花のように、意外と人々というのは足元にあるものに気がつくことができず、だいなしにしてしまうことがあるのかもしれません。
ところで、私がふと考えるのは、このお話が書き手である「私」が小さい時に茂平というおじいさんから聞いた、と始まっていることです。「ごん狐」は多くがごんの目線で描かれていますが、ごんは撃たれて亡くなってしまっていて、それに狐ですから、当然人に語って聞かせることはできないでしょう。とすれば、もう一人深く関わってくる、兵十によって語られたことがはじまりなのだろう、と想像できます。そう考えた時に、もしこのお話が兵十の経験したことだとしたら、ごんという狐を撃ち殺してしまった兵十が何を思って、このお話を村の人に聞かせたのか、ということに想いを馳せてしまいます。
きっと兵十はいたずら好きながらも健気な狐を殺してしまったことを、深く後悔していたのでしょう。ですから、この皆が無知であったが故に起こってしまった悲劇を、教訓として残したいがために、村の人々に語って聞かせたのではないでしょうか。
冒頭でも書いたとおりに、人の記憶力にはまるで信用がならないもので、私自信それを「ごん狐」の再読で痛感しているわけなのですが、もしかすると兵十も、そんな人の記憶力に抗おうとしていたのかもしれません。そんなことを思うと、今こうして久しぶりにこのお話を読んで、あれこれ考えているということが、当時は気がつけなかったこの物語を味わうことの価値なのかもしれません。
「ごん狐」の話なんて当然知っているよ、なんて考えているあなたも、もしかすると再読してみて初めて気がつく、彼岸花の美しさがあるかもしれませんよ。