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入選

自由図書 高校生の部
内閣総理大臣賞

特に内閣総理大臣から許可を得ているわけではありません。

作品情報

応募者名: がくふぁ

対象図書: 自由図書 読んでいない本について堂々と語る本

区分: 高校生の部(2000字以内)

感想文

講評(クリックで表示)

講評:ほろあま

これもまたタイトルを見て驚いた図書でしたが、読書感想文にぴったりの読書の本質を考えさせられる感想文でした。なんだか言いくるめられているような驚かされる論理展開で、好奇心をそそられる感想文でした。また、この本を対象として感想文を書くことで、自己言及的な魅力を持つ文になっているなと思いました。読書感想文も、本を読むという行為自体ではなく、自身の中にある書物について語るということに価値があるのだなと再認識することができました。きっと、素晴らしい読書感想文とは「その人の中にある書物」がしっかりと書かれている文章なのだろうなぁと感心し、改めて他の参加者の感想文を読み直したくなりました。そして、私も感想文を読むことでこの本について知ったかぶりができるようになったので、有意義だなと思いました。

内閣総理大臣賞おめでとうございます。

『教養を得るということ』
がくふぁ

「読んでいない本について堂々と語る本」は本を読むということの本質的意味について語られた本だ。なぜ本を読まなければいけないのか。どのような場合に本を読んでいることが求められるのか。読んでいない本について語ることは悪なのか。それらを過去の書物を参照して語られている。人が本について語る時に必要な情報は、本を読まなければ手に入らないものではない。一度本を読んだからといって、その本の情報を完全に得られるわけではない。また、伝聞や映像によってその本を知ることは可能であり、本について語るためには、必ずしも読書という工程は必要なものではない。この本では、教養を高めることは自身の中の「共有図書館」を充実させることと同義であり、そのために読書をする必要はない、ということが語られている。
本を読む・知る、という活動は内なる本を創造する活動と表裏一体であり、本のその存在を認知した瞬間にその本は内なる本として創造され、それは読書という行動の如何に関わらず、自身の中の「共有図書館」に蔵書される。その積み重ねを展開して言葉にすることこそが、教養の本質の一つであり、それが読書という行為に囚われるようなことがあってはならないと作者は説いている。書評のために本を読む必要はなく、「共有図書館」から該当する本を選ぶだけでよい。
例えばギルガメシュ叙事詩を考えてみよう。古代文明において残された文字を解析して物語が綴られる本が多いが、一部が欠損しており大抵の場合は訳者による注釈によって補完される。欠損を補う、という行為は様々な文献を調査した上で補われる「創造」であり、また、それを読み我々が得る情報も「共有図書館」の蔵書として創造される。本というものは創造のサイクルを加速させる装置であり、そこに書かれた情報は創造と創造を繋ぐ架け橋なのである。本書はその本をどの程度知っているのか、どういった場面でその本を語るのか、を場合分けして過去の書物を頼りにその考え方を展開している。読んでいない本を語る時、最も大きな障害となるのは、自己アイデンティティとしての教養が露呈する可能性に対する恐怖である。教養がある人として見られたいという文化的人間の本能的欲求を否定し、自分が自分らしくあることを肯定することこそが、読書に対するハードルを下げ本質的な教養を手に入れるための一歩となるのだ。
本書にある一節として関心したものがある。「ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間に関わっている」。情報というものは空間に展開・共有される時にその意味を発揮する。書物に書かれた内容もそれを口に出した瞬間がその情報のピークなのである。情報化社会において、読書という娯楽の地位は相対的に下がりつつある。しかし、本を知る機会は右肩上がり、つまり「共有図書館」の蔵書数は過去とは比べものにならない数となっているだろう。知っているが知らない本、というものの存在が増える今、それを解消するための読書というのは本質的な書物のあり方から離れていくことになる可能性がある。断片的な情報から推察されるその文書の「潜在的可能性」を体感し、曖昧な空間を拡張するために自身の蔵書を広げ、それについて語ることこそが自身の中の書物空間を拡張するための礎となるのだ。
批評活動における読書についても本書では触れられている。自分自身について語ることこそが批評活動の狙いであり、究極として批評活動は批評家自身についての考察を示しているというのである。むしろ書物によって自己批評が影響を受けてしまう可能性を避けるために批評対象となる書物は読むべきではないという言説も紹介されている。これはつまり、本を読むな、ということではなく、自身が向き合うべきは実空間上の書物ではなく、自身の中にある書物を評するべきであるという意見である。
この読書感想文も自身の共有図書館の蔵書を展開した内容を評した感想文である。本を読み終わった今書いているこの文書も、この状態ではまだ自身を評しているとは言えず、本から受けたイメージをただ文章として起こしているだけだと自覚している。
教養を高めるために過去の名作を知るという行為は、その行為自体が自身の教養となる。読書というのは本を知るための過程であり、情報さえ得られればあらゆる行為が読書と等価である。読書というものを神格化せず、あらゆる媒体から得た情報を言語化して自身の図書館に落とし込みそれを内なる本として展開できるようになることこそが、真の教養と言えるのではないか。自身が持つ対象に対する情報を如何に引き出し、それを言葉として紡げるか、それが「本を知る」ということの一つの目標だと改めて認識することができた。
最後にこの本の表記に則って感想文を締めよう。<流><○>

縦書き版

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