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作品情報
応募者名: ほろあま
対象図書: 課題図書 ごん狐(新美南吉)
区分: 小学校高学年の部(1200字以内)
感想文
講評(クリックで表示)
応募者が主催のため、講評なし
『思い出して、綴って、思い出す』
ほろあま
生きていると法事に出席することがある。私の場合はこの夏に祖父の年忌に参加した。聞き取れない念仏を聞く時間や焼香の時間にはふと故人の思い出が浮かんだりする。本来、亡くなった存在はどうしても忘れさられてしまう。だからこそ思い出すための何かが必要だ。その役割として法事は強力だ。遺族が集まり、よくわからないがお坊さんから「今、極楽浄土にいるんだよ」みたいな話を聞く。形式はどうあれ、思い出すことがきっと最大の供養なのだと思う。
私がこの夏に「ごん狐」を読み直して感じたのは「思い出すことによる供養の大切さ」だった。
ごん狐における最初の一文目は「これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です」だ。この文はあってもなくても、作品として成立するように思える。ただ昔の話をするだけなら、2行目の「むかしは」で十分だ。しかし、私はこの肝心な冒頭部分に伝聞であることを示す一文があることに大きな意味があるのではないかと思った。この一文によって、ごんぎつねがおとぎ話ではなく、現実にあったかのような伝承に思わせている。ただ、この物語を伝聞とすると不思議な点がある。伝聞にしてはごんの心情描写が豊富すぎるという点だ。狐は言葉を話さないし、そもそもごんの作中の行動を観測した人は少ないはずだ。となると、この物語は兵十による実体験を元にした創作なのだろうと考えてしまう。伝承を作りたくなるほどに、ごんの死が居た堪れない出来事だったのだと思う。
そして、最後の一文にあるごんへの線香にも見える火縄銃の青い煙は、あたかも作品自体がごんへの供養になっていると感じとれた。兵十は見たわけでもないごんの行動を見たかのように想像し、ごんから受け取った一方的な愛に伝承で恩返しをしたと私は捉えた。こう考えることでごんの贖罪や愛が報われたような気がして、この切ない物語に救いがあるように思えて嬉しい気持ちになった。同時に、亡くなった存在について想像を巡らせる上で虚構で補完することが効果的だと感じた。死人に口なしというが、それは現実をただ述べただけに過ぎない。虚構を介せば、死人はいくらでも語るし、いくらでも思い出は生まれる。身の回りで考えてみると死を感じることは少ないが、定期的に法事に出れば仏様やお経、極楽地獄の概念などの共有された物語に基づいて故人に思いを馳せることもできる。規模の差があるだけで、きっとごん狐も宗教も、人と虚構を共有することで故人への追憶を促すもの同士なのだなと、いろいろと腑に落ちた気がした。
三尺角のように気の迷いや勘違いで生まれる虚構もあれば、祈りや弔いの気持ちで生まれる虚構もある。そんなごん狐が、今も学校で読まれて受け継がれてるという事実がなんだか輪をかけて嬉しいと思ってしまった。誰もごんのことを忘れてなんかいないのだから。