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入選

自由図書 高校生の部 内閣総理大臣賞

特に内閣総理大臣から許可を得ているわけではありません。

作品情報

応募者名: がくふぁ

対象図書: 自由図書 読書感想文

区分: 高校生の部(本文 2000字以内)

感想文

講評(クリックで表示)

講評:ほろあま

自己を参照した読書感想文という今までにないタイプの投稿でびっくりですね。内容も読書感想文の枠を超えた深い洞察を含んでいて読んでいて面白いです。「文書は過去と今、そして未来をつなぐ架け橋」というのは非常に共感しますし、読書感想文もまた例外ではないと思い知りました。あとは、自身の書いた文章に対する感想文とも言えるのでレギュレーション的に際どいところではあります。あと、締切は守りましょう。

内閣総理大臣賞おめでとうございます。

 読書感想文を書くということは「読書」を行った後の己が心の機微を描くものである。読書というのは「本を読むこと」とされるが、今回の読書感想文大会は本に限らず何を「読んでも良い」ということとなっている。今回私が読んだのはこの読書感想文である。この文章を書いているということ自体が読書であり、その文書の始まりが既に読書感想文となっている。読書とは時間芸術を体験する一つの手段であり、受け手がその体感する時間を自由に延長短縮できるものだ。文字の羅列だけでは文章とはならず、ただの文章の連続では書籍とはなり得ない。文字を読み解き文脈を知ることで、今目の前にある芸術を鑑賞することができるようになる。では、その鑑賞を演劇のようにリアルタイムな時間軸に落とし込むためには何が必要か。それはリアルタイムに記述されていく文書をリアルタイムに読むことだ。
  この「読書感想文」では「読書」の結果として己が心の機微が現れ、それを文章とすることで読書感想文が綴られる、とされている。果たしてそれは真だろうか?読書感想文とは読んで字の如く、読書をした感想を記述した文であるように思われる方が多い。しかし、実際の読書感想文とは感想を下敷きにせずとも文書を紡ぐことができる。それは作者の意図を読み解き作文していくという方法だ。ほぼ考察や書評に近い書き方となるが、国語の授業の課題の側面としての読書感想文はこちらの方が適しているのではないか。しかし、この「読書感想文」でも触れられている芸術的側面はこの書き方で作られた読書感想文にも当てはまるのだろうか。これに私はイエスと答えたい。奥の細道は平家物語で語られた道をなぞった旅日記である。平家物語の二次創作としての奥の細道が芸術となるのであれば、今回の問に対しても同様の答えがだせるだろう。
  この「読書感想文」では読書の結果として生まれた感想文が芸術たり得るとされている。文書における芸術を拡大解釈し、論評の域まで広げている。ここで問題として提議したいのは論文などの学術的文書は芸術たり得るのかという点だ。私はこれに対して芸術としても良いと考える。「読書感想文」でも述べられている奥の細道の例にもある通り、全ての文書は芸術たり得る「可能性がある」。ここで重要なことはそれを書いた人の意思こそがその文書が芸術たり得るかどうかの分岐点になるのではないか、ということだ。 2022年の哲学の探求 第49号 『芸術とは何か?」という問題はどのように取り組まれるべきか?』という論考では、芸術は鑑賞の候補であることが特徴である、とされている。それはつまり人間の直感的認識がそのものを鑑賞可能と見なすか否かが芸術の分かれ目ということだろう。個々人が何に鑑賞できる可能性を見出すのかということに対しての議論はここでは行わないが、対象に対しての主観的な意識のあり方がある存在の芸術的側面を生み出すということに疑いはないだろう。今現在書かれている文書が今はまだ芸術たり得ない、それを今現在鑑賞する人がいなかったとしても、50年、100年後の誰かがそれを「鑑賞」した時、それは芸術となるのである。「読書感想文」では芸術のリアルタイム性が論じられていたが、それと同時に今芸術ではないものもタイムカプセルのように未来では芸術となる可能性があるということとなる。芸術とはなにかは哲学の分野では盛んに論じられるテーマではあるが、こと読書感想文についてそれが語られたことは少ないだろう。文書は過去と今、そして未来をつなぐ架け橋であり、そこには芸術的鑑賞の側面が常に存在していることを忘れてはならない。それがただの感想文であったとしても