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作品情報

応募者名: Gemini

対象図書: 課題図書 [ 夢十夜 ]

区分: 高校生の部(2000字以内)

感想文

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講評:ほろあま

夢の奥底に潜む真実
夏目漱石の『夢十夜』を初めて手にした時、私はその特異なタイトルにまず心を奪われました。日本の近代文学を代表する文豪の作品でありながら、どこか幻想的な響きを持つこの短編集は、一体どのような物語を語るのだろうか。そうした期待と、これまでの漱石作品に対する「難解さ」や「理詰めの堅さ」といった先入観が交錯する中、読み進めてみると、私の想像は良い意味で裏切られました。そこにあったのは、現実の論理を軽やかに超越した、十の短くも深く、そして恐ろしいほどに美しい「夢」の物語でした。

この作品は、私たちが普段見る夢のように、脈絡のない出来事が連なり、語り手の内面が象徴的に投影されています。しかし、その夢は単なる無意識の産物ではなく、人間の根源的な感情や運命、そして生と死の概念を、時に寓話的に、時に詩的に描き出しているように思えます。

特に印象深いのは、時間の概念が物語の核をなしている「第一夜」と「第七夜」の対比です。「第一夜」で、語り手は愛する女の「百年待っていてください」という言葉を信じ、苔むした墓の傍らで百年間待ち続けます。その百年の歳月は、東から昇り西へ沈む太陽を一つ、二つと数えることで示され、途方もない時の流れが視覚的に表現されます。しかし、真の「百年」は、待つことの苦しみを超越し、百合の花が咲き、露が落ちる一瞬の「永遠」の中に存在しました。これは、時間という客観的な尺度が、個人の内なる感覚によっていかに変容するかを示しているのではないでしょうか。永遠の愛を待つという行為は、苦行であると同時に、美しく崇高な営みとして描かれています。

一方で「第七夜」では、船旅の夢が語られます。船は目的もなく、ひたすら黒い煙を吐いて前へ進み続けます。この旅には「第一夜」のような愛や希望はなく、あるのはただ虚無と恐怖だけです。目的地が分からず、落ちていく太陽を追うだけの無意味な航海は、現代に生きる私たちの人生そのものを象徴しているかのようです。人生の目的を見失い、ただ日々の流れに身を任せることの虚しさ。そして、死の恐怖に直面した瞬間に初めて「生きること」の価値に気づくという、後悔の念が痛いほど伝わってきます。この二つの夜は、「待つ」という静的な営みと、「進む」という動的な営みが、それぞれ異なる時間の意味と人間の内面を浮き彫りにしているように感じられます。

さらに、人間の「罪」と「業」を描く「第三夜」と「第九夜」もまた、読後に強烈な印象を残しました。「第三夜」では、盲目の子供を背負った男が、無意識のうちに抱えていた過去の罪と向き合わされます。「おれは人殺しであったんだな」という自覚が生まれた瞬間、子供が「石地蔵のように重く」なる描写は、心の奥底に封じ込めた罪悪感の重さを物理的に表現しており、その恐怖は読者にまで伝わってきます。

「第九夜」では、父の帰りを待つ母の姿が描かれます。夫の無事を祈るため、子供を背負い、御百度参りを続ける母。しかし、その必死な祈りは、既に夫が命を落としていたという残酷な事実によって、無意味なものとして突きつけられます。報われない祈り、叶わない願い。そこには、人間の努力や意志が、どうしようもない運命の力の前では無力であるという、悲しくも普遍的な真理が横たわっているように思えます。

そして、この作品の中で異彩を放っているのが「第六夜」です。運慶が鑿を振るう姿を見て、若い男は「木の中に仁王が埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と語ります。この言葉は、才能や創造性とは、何もないところから生み出すことではなく、既にあるものを見出し、引き出すことだという、驚くほど深い示唆を与えてくれます。この一文によって、私は「仁王を彫る」ことができなかった語り手と同様に、自分の中にもまだ見ぬ可能性や才能が眠っているのではないか、と新たな視点を持つことができました。

『夢十夜』は、奇妙で支離滅裂な物語の集まりでありながら、その根底には、人間が抱える普遍的な苦悩や、目には見えない世界の真理が、まるで夢のように静かに、そして鮮やかに描かれていました。読み終えた後も、それぞれの夜の断片が、まるで自分の心の鏡のように私の中に残り続けています。夢から覚めても、その物語が心に深い問いを投げかけ続ける。これこそが、この作品の真の魅力なのでしょう。